2020年9月8日火曜日

はじめに~私が「ムーラン」の主題にかける思い~

「おんなは いえで おとなしく していろ。おんなに へいしは むりだ。そう いって いた ひとたちも、みんな ムーランに あやまりました。」

「ムーランは ほこりを むねに、どうどうと いえへ かえりました。」

 

 ディズニー制作のアニメ映画「ムーラン」に興味を持ったのは、講談社の書籍「ディズニープリンセスのすべて」にあるこの文章だった。ディズニーの児童書を読むのが好きな私は、家にある「シンデレラ」「リトル・マーメイド」などの本を擦り切れるまで(本当に擦り切れている)読んだり、本屋に言って児童書コーナーをチェック&購入したりしていた。その中の一つに、この本があったのである。

 子ども向けの本であり、使用できる語彙や文章の長さに制限がかかることや、ムーランの紹介ページはわずか見開き3ページ(いわゆる「7姫」は見開き7ページだった)しかなかったこともあり、本編の説明が十分になされていたとはいい難いのだが……それでも、ムーランの真髄はきちんと説明されていたように思う。

 ムーランは、「女はしとやかであるべき」という価値観に馴染めなかったこと。自分(らしさ)を隠せない、と悩んでいること。男性として振る舞うことに慣れず、軍隊の中に馴染めず、男性との体格や力の差が歴然としていて非力だったこと。だが、自分の強みである知恵を駆使し懸命に努力し、立派な戦士となったこと……そして、自分のした事に自信と誇りを持って帰郷したという事。

 ディズニーのアニメ映画「ムーラン」は、性差別的な偏見を持った社会に馴染めず、時に悩み時にくじけながらも、己の強みと心を信じて成長を遂げ、自己実現を果たす、という一人の人間の生き様を描いた物語なのである。

 

 実写版「ムーラン」は、公開以前から、アニメ版からの設定の改変が多くなされる事が話題となっていた。SNS上ではそれを悲しむ声があがっていたが、私はさほど気にしてはいなかった。

 なぜなら、ムーシューやシャン(そしてチ・フーやムーランの祖母)が居なくとも、ミュージカルではなくとも、魔女やムーランの妹といった新たなキャラクターがストーリーに絡もうとも、「己の強みと心を信じて成長を遂げ、自己実現を果たす」というムーランの物語を描くことは可能だと思ったからである。事実、監督にはフェミニズムをテーマとした映画で高く評価されているニキ・カーロ氏が選出されており、多少趣向は変わろうとも、偏見に負けず己の意思を貫き通す主人公が描かれるものだ、と思っていた。

 

 だが、実写版「ムーラン」を観た時、そこにいたのは、自分の決断、選択、行動を「不名誉な事」「償わねばならぬ事」と述べる一人の人間だった。彼女の表情と言葉には、自分の決断と行動を恥じる気持ちが表れていた。そこには、自分を信じる気持ちも、自分への誇りも、何もなかった。

 

 思えば、ディズニーの描いたムーランは、原作の詩「木蘭辞」の花木蘭とは似て非なる存在だった。花木蘭は年老いた父の代わりに出征し、武功を立て高官の位を獲得するが、それを捨てて帰郷し、女性としての姿と役割に戻った人間である。彼女には、「性差別的な価値観へ順応できないが故の苦痛」「自己実現のために行動する」といったディズニー版ムーランの根幹をなしていた要素は一切ない。それらは、ディズニーが「性別に関わりのない、一人の人間の物語を描きたい」と考えた故での、独自の発想なのである。

 そして、その発想は、中国の儒教道徳にならうものではなく、どうやら、中国の観客のマジョリティに対応するものでもなかったらしい(※念のために言っておくが、本国アメリカや台湾ではヒットしていて、興行収入も十分に高い。だからこそディズニー・ルネサンスという一つの時代を担った名作という扱いを受けているのである)。

 そして、2010年代後半、新たな実写映画として「ムーラン」を制作することにしたディズニーは、中心となるテーマを前者に原作(木蘭辞)に寄せるのか、1998年ディズニー版に寄せるか、と考えた末に、前者を選んで中国の儒教道徳と観客に寄り添うことを選び、後者の根幹を、主人公の手によって失ってしまったのである。


 映画自体は面白かったと思う。評価できる部分が沢山あったと思う。だが、あくまでこれは1998年制作のディズニーアニメーション「ムーラン」の実写化ではなかったか。そして、性差別に反対し、フェミニズムそしてジェンダー平等というテーマを持つ映画ではなかったか。それなのに、なぜ主人公が、己の信念や行動を恥じ、申し訳なさそうな顔で「私のしたことは不名誉なことだった」と言わなければいけなかったのか。あの映画は、アニメ版「ムーラン」が伝えたかったメッセージを、性差別的な偏見に満ちた社会に立ち向かった一人の人間の物語を今この時代に描くことの意味を、分かっていたのだろうか。

 私は、「一人の人間が、偏見に立ち向かい、己の信念を貫いて成し遂げた偉業」が、主人公によって「不名誉なこと」「償うべきこと」として定義されてしまった、よりにもよって今この時代に、大好きなアニメ版「ムーラン」のリメイクとして描かれてしまった……という事実に絶望した。次に怒った。そして考えるのに疲れしばらく距離を置き、頭を冷やそうと、いや、逃げようとしたのである。だが、やはり、アニメ版「ムーラン」を観たくなってしまった。半ばぼんやりとした気持ちで再生した。久しぶりに(久しぶりだったのである)観たムーランは、記憶の中にあるよりも勇敢で、根性があって、自信に満ちあふれていた顔をしていた。

 クライマックスに向かうにつれ、だんだんと頭がはっきりしてきた。私にできることが、あるんじゃないかと。


 時代は絶えず変化している。いかなる名作であろうとも、差別的表現や偏見に基づく価値観は批判の対象となり、私自身、その流れを否定するつもりは全くない。アニメ版「ムーラン」も、批判の対象となる表現が多く存在する事は否定できない。だが、性差別的な社会にも負けず、既存の常識や偏見を覆して自己実現を達成しようとする主人公は、批判の対象になるだろうか。差別と偏見に溢れた社会を変えよう、という動きが盛んとなる今日、むしろ高く評価される要素ではないだろうか。

 私に(それこそムーランのように)世間を大きく変えられる力がある訳ではないと思う。だが、そんな私にも、アニメ版「ムーラン」という「偏見に負けずに自己実現を達成した人間の物語」に感動し、勇気づけられた一人の人間がここに存在し、生きていることを示すことはできるのである。そして、アニメ版「ムーラン」のそのメッセージには素晴らしい部分があるのだ、と言うことはできるのだと思う。

 私は、作品はいつか忘れ去られる時が来るものだと思っている。だが、メッセージは、普遍的に生き残ることだってできると思う。アニメ版「ムーラン」も、いつか忘れ去られてしまう日が来るかもしれないけれど、メッセージは、生き残ることができると思う。「偏見に負けないで」「自分を信じて」……このメッセージは、公開から20年が経った今も、十分通じるものだと思うのである。


 そういった思いで、ここでは、アニメ版「ムーラン」を中心とした自分の感想・意見を展開していくつもりである。このブログを読んだ人が、アニメ版「ムーラン」のメッセージについて、私の意見を肯定するのでも、否定するのでも、それぞれに思いをめぐらし、考えていただけたら、これ以上に嬉しいことはない。

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